「どうして移住先に男木島を選ぶのか?」というのはよく聞かれる質問でもあります。
そんなわけで、男木島に引っ越してきたご家族の話を聞いてみることにしました。
インタビュアーは Junco Stuart さん。初回は、まずご本人のお話から書いていただきます。
Stuart家の男木島に引っ越したわけ
国際結婚をして、オーストラリアと日本を行き来していた私たちが、日本の移住先に男木島を選んだわけ。もともとは、妻の実家がある大阪とオーストラリアを行ったり来たりしていたのですが、地方にはずっと憧れがありました。ビルと住宅と満員電車に囲まれた日本の都会暮らしではなくて、畑と海と山に囲まれた地方で暮らしたいなと、思っていました。そして、それが子育てをする上で大切だとも思っていました。町中で子ども達と遊びに行こうと言っても、テーマパークだったり、近所の小さな公園だったりして、人が作った場所で遊ぶ。地方だと、海で泳いで、魚を釣って、山登りしてなどの、自然に触れ合い、そこから子ども達が創造性を発揮できるのではないかと、考えていました。
私たち夫婦が、移住先を決める上で外せなかった要因は、自然災害と学校と家の3点。自然災害は、言わずもがなお分かりになると思いますが、せっかく移住したのに災害に会いました、では悲しすぎる。なので、自然災害の少ない場所を選びたい。瀬戸内海の温暖な気温と香川県の災害の少なさは魅力的でした。
そして、私たちには子どもがいるので、移住先に学校はあるのか、そしてその学校はどんな学校なのかも、気になるところでした。移住先を決める上で、実際に学校を訪れて、その雰囲気を肌で感じに行きました。男木島の小中学校は、新校舎が設立されてからまだ3年目で新しく、トイレも洋式で、プールもあり、校庭は芝生の緑が眩しい。2019年度の学校在籍予定は、小中合わせて4人と小規模で、それなのに教職員は常勤で8名プラス非常勤で学校に関わる教職員を含めると総勢20名近くに上る。なんて手厚い環境なのだろう。オーストラリアで生まれ育った我が家の娘には国語力がつくようにと願っていただけに、男木島の個をきちんと見てもらえるのではという小規模な小学校の環境は魅力的でした。また、学校まで徒歩で通うことができるという環境もプラスに感じました。
そして、いくら移住をしたいと思っても、住む家が見つからなければ、移住はできません。なので、住む家が見つかるかどうかも重要なポイントでした。私たちは、移住をしようと決めてリサーチしていた期間は2年近くあり長かったのですが、移住先候補を実際には約1ヶ月で見て回り、そして移住を始めるまでは、その後2ー3週間という期間が希望だったので、移住先を見て回った段階で住む家の候補が見つからなければ、きっとその地域には住むのが難しそうとも、思っていました。男木島には空き家はあるけれど、手を入れなければ住むのが難しい家が多いと聞く中で、ご縁あって手入れしなくても入居できる家をお借りすることができました。
また、最重要ではないけれど他にも惹かれた点は多々あります。車社会で暮らしていた私たちには、男木島で車を日常に使用しなくていいのは、金銭面でも安全面でも安心でした。また、島自体は僻地と言われても、瀬戸内海の景色を眺めながらのんびりフェリーに40分乗れば、香川県の県庁所在地である高松の便利さに触れることができるのも良い点でした。
あと、個人的に、男木島図書館の雰囲気がとても好きで、もし島に移住して困ったことがあっても、ここに来たら話を聞いてもらえる安心感がありました。また、子どもたちの教育を考える上で、本を大切にしてこれまでも子育してきたので、島にいながら、身近に図書館があり、本を借りることができる環境にはとても惹かれました。
また、フェリーから見える島の景観に一目惚れし、石垣を横目に小道を歩くだけで気持ちが高鳴った、自分たちの直感を信じて、男木島移住に至りました。
Stuart家関連リンク
We sold our house and packed up our lives to travel around the world
https://www.abc.net.au/life/selling-house-packing-up-lives-to-travel-around-the-world/11166640
Small towns in Japan are desperate for families like us — now we’ve got the perfect home
https://www.abc.net.au/life/finding-a-home-in-japan/11203550
Junko Stuart プロフィール
海外に旅立ちたいと学童期より心にあり、正看護師で少し働いたのちに、日本を発った。まずは、ワーキングホリデービザをとったパスポートと少しの所持金で、オーストラリアに。せっかく英語圏に住んでいるんだし、日本人の少ない環境で生活しようと、住居はオーストラリア人女性とシェアし、現地の小学校の学童ボランティアや高校で日本語教師アシスタント、また地域のコーラスグループに参加し、老人ホームや各種イベントで歌うなどの活動をした。
ワーキングホリデー後は、そのまま海外を転々と。オーストラリアからは、タイランドに行き、現地の森の小学校、児童保護施設で数ヶ月ボランティア。その後、アジアからヨーロッパをバックパッカーで20数か国一人でぐるぐる周る。その後、日本の新聞社の企画で、隊員として、アメリカ大陸をチームで歩いて横断。
横断中は、毎日のウォーキングに加えて、各地を取材。印象に残っているのは、アメリカの刑務所や児童保護施設、ホームレスの保護施設などで、当時、日本でも訪れたことのない場所をアメリカで多々訪れたこと。それらの取材を通し、「教育が何より大切だ」と、再認識し、日本に帰国後、看護師やライター、リポーター、司会業で働く傍ら、通信教育で教員免許取得。
日本の公立小学校で約5年間教員をしたのち、オーストラリア人の夫の母国に移住。英語の勉強、教員免許状の取得準備と並行して、現地日本語情報誌のライターとして、オーストラリア中を取材で飛び回り、エアーズロックやブルーム、エクスマウスやタスマニア島、ダーウィン、そしてもちろんシドニーやメルボルンなどの都市も訪れ、記事を書いた。そういえば、このころ、多民族放送ラジオの日本語パーソナリティーもしていた。
2010年に、オーストラリアクイーンズランド州の教員免許状を取得し、現地の公立小学校で勤務。現在は、2児の母で、忙しい街中のライフスタイルから脱却し、子ども達が幼いうちに家族の時間をたっぷり持ちたいと願い、2019年からはオーストラリアの小学校を休職し、時間や場所に縛られない働き方を追求中。